昭和41年03月25日 朝の御理解
話を聞いて助かる道とこう仰りますが、話を聞いて皆さんが助かって下さらなければ、ためにはやはりどう言う様な頂き方をしたら助かるかと。祈念祈祷で助かるのでない。話を聞いて助かる、成程祈念もよい、拝む事も有難い。その祈念も、だからいわゆる拝ましてもらう事も、頂いたその話を、どれほど自分の血に肉にする事が出来るか、又それが血肉になります様にということの願いであり、拝むことでなければならない。
ですから大体をいうと、もう信心はこれなんだと、もうここ一言でいいんだという、日々の例えば朝晩ここで頂きます、御理解の中の一言を、皆さんにお伝えしたら、皆さんがそれを理解して下さって、それを血に肉にして下さる事が、一番いいんでございますけれども、どうしても皆さんのその心をです、こちらの方に向かせなければならない。皆さんの心を、こちらの方へ心から向かなければ、為に言わば理解づける、結局御理解ということになるのです。
皆さんの心を神様の方に向けさせなければならない。体の方は向いているけど、心は向いてない。さぁ今日はどう言う様なお話を頂いて、今日一日私の生き方、生きる事の一つの糧にさせて頂こうかと、そういう心の姿勢というものが、こちらに向いとかないとだめなんですね。段々おかげを頂きましてね、その今日はこれだ、ここだという所を、その事だけをお伝えさせて頂いたら、皆さんがそれをキャッチしなさる、受け止めなさる。もしそれが分からなかったら、それを色々練ってみる。
それでも分からんなら、もう一回お伺いしてみて自分のものにしていこうとする、そういう姿勢が必要である。話を聞いて助かる。お道の信心はお取次を頂いて、お取次を願わしてもろうて、日々の信心生活を進めていき、様々な難儀の中から、おかげを頂き、有難し勿体なしの生活にしていく、というところに信心のお道の信心の目指しがある、目的があるそこに、又神の願いもある。そこで私共の願いも、そこに置かねばならぬ。ですから皆さんの願いがそこに置いてあるかどうか。
昨夜、北野の中村さんのところの謝恩会がございました。沢山の人が集まりまして、賑やかに、中村さん一家の真心のお祭りが、毎年三月二十四日に毎年これは奉仕されてまいりました。今年も丁度三月二十四日になったから、謝恩祭をして頂こうというだけではね、謝恩祭の意味が無い。成程一年間振り返ってみると、あれもおかげ頂いた、これもおかげになったと、ほんとに平穏無事で大した事もなく住まわして頂いたと言う事が謝恩に報いるところの対象にはなっておりますけども。
それだけでは、本当の謝恩祭に意義は無い。それは意義の薄いものになってくる。信心をしていれば一年一年有難くなってくると仰せられるのに、信心させて頂いとれば一年一年、中村さんなら中村さん始め、子供に至るまでが信心の道を分からせて貰い、一年一年有難くならせて頂いておるという、昨年よりも今年、これだけ有難くならせて頂きましたと言う事を、とり仕えてお祭り、と言う事にならなければならないと言う事を、と私申しました。そこでそのお互いが、そうした喜びの生活が段々出来る様になる。
私、昨日あちらで御祈念中に、皆さんがご承知の様に、私は左の耳が全然聞こえません。で、この右の耳だけが、それも普通よりもだいぶん遠いです。ですから、私が御結界のこう言う風な、普通は教会に参りますと必ず御結界は右にあるものですけども、ここでは左なんです。やはりこうして横を向いておりますから、こちらの方から皆さんのお届けされる事を聞かなければいけないし、こちらの方からは、神様のいうて下さる事を聞かなければなりませんから、そんなに便利によく出来ているのです。
ところが昨日、お祭り中にですね、私の耳は。ところがその御祈念中に、お祭り中に、私の完全なこちらの耳の方が、途端にゴーと耳鳴りというでしょうかね、もう兎に角その耳に感じるくらいに耳鳴りがするんです。御祭典中でしたけど、大祓を奏上させて頂きながら小指を耳の中にこう入れましてね、こうやっておったのです。栓をしときますとね、ゴーというのが栓ようですからこうしとりました。
そうですね、三、四十名位お参りがあっていたでしょうか、皆さんが一生懸命大祓を上げておられますのに、言わば、私はこちらの完全の右の方を押さえてしまったものですから、全然聞こえなくなって皆さんが口だけ開けておんなさるだけ。鶏がコケコッコゥーといって歌っても耳が遠いかったら、あらあの鶏はあくびをしている位しか見えないわけなのです。聞こえないものですから、昨日私が、そんな具合でした。皆さんがアーとあくびばっかりしよんなさる感じです、聞こえないもんですから。
そしてその時に私が分からして頂いた事がです、ね、あぁ信心のないものの世界、ね、又は信心の薄いものの世界、信薄き人達の世界が、こう言う様な事であろうと、私は思うたんです。信心する者は肉眼をおいて心眼開けと。と言う事は信心する者はです、肉の耳をおいて、心の耳を開けと言う事にもなるのです。それを肉眼で見るから、難儀は難儀と見えるのであり、自分の肉の耳で聞くから、それは皮肉な事に聞こえてきたり、腹の立つ事になるのです。心の耳をもってすると本当の事が聞こえてくる。
それがそのまま神の声と聞こえてくる、神の姿と見えてくる。そこに次元の違った世界、難しく申しますと、そういう私、生活を信心生活だと思う。そういう真の生活が段々出来てきますと、本当の事が分かる様になる。お互いは、いうならば肉眼は見えておるけれども、心の眼が開けていない。心の眼が開けてないから、それが腹の立つ事に見えたり、情けないこに見えたり、と困った事に見えるのです。心の眼をもってするとそれは、お礼を申し上げねばならぬ事ばかり、聞こえてくるのも同じ事。
神様は世界中の氏子に話がしてみたいと仰せられる。けれども、聞く耳をもたんから仕方がないというふうに、神様はいうておられますけども、私共が信心させて頂いて、ほんとに心の耳を開かせてもらい、心の眼を開かせて頂くおかげを頂くところに、言わば今より違った世界、次元の違った世界、一段高められたところの世界、私共はそういう世界に住まわせて頂く事の出来れる事を、目指しとしなければならない、と言う様な事を聞いて頂いたのです。
昨夜帰らせて頂いて、中村さん所で頂きました、その御理解を思わせて頂きながら、段々お互いが実際はね、神様から直接お知らせなんかを頂く様な場合もあります。その例に私が上野自転車のお母さんが、二番目の孫が出来ます時に、お夢の中に今度の子供にはかよ子さん、かよ子という名前を夢の中で下さったという訳ですね。ですから今度生れる子は娘ばいと、これなんかは夢の中で神様がものをいい聞かせて下さった感じですね。その孫さんとお婆さんが参っておられましたから、その方の例をとって申しました。
同時に、これは私が聞かせて頂いた、その例では、ここにおられます深町良蔵さんの話をさせて頂いた。いうなら死か生るかと、いうなら難産、お医者さんがこれはどうでも貴方がお父さんになられる訳ですから、母体の方が大事だから、子供のことは諦めてくれと言われた。それを神様にお願いさせて頂いておるから、どうぞ助けて下さい、というてまた再度の事にかかられた時に、それこそ安産のおかげを頂いた。そのお願いにみえた時に私が頂いた事がです、娘とも息子とも言って下さらんけどもです。
まぁ分かりやすくいうならば、丙午でないから安心という様な意味の事を頂いたから、一般ではね、お道の信心はそんな事はない、迷信ですから。けれども一般では迷信を、やはりあのうせいしんしておる人がおります。本当の事の様に信じている人がありますから、お爺さんやお婆さんは、その事をやはり心配しておられるから、教えて下さったのだなあと思いました。私は今度のは、今度生まれて見える赤ちゃんな娘さんでなくて、こりゃ息子さんだと思いましたから、安産のおかげにも成るのだなぁ。
又男の子の名前を頂いておっても良いのだなあと思って、男の名前をちゃんと頂いておりましたら、それから何時間かして、お礼に見えましたから、おかげで息子の子の安産のおかげを頂いたというて、お届けがありました。二人の北野の方達の例をとってから、私が神様から声を、神様のいうなら呼び掛けて下さった事を聞き止めた、その事を実際をもってお話をさせて頂いた。というて私とてもですよ、何時も神様の声を聞き通しに聞いている訳ではないのです。
お夢の中で、皆さんは体験はおありになるけれども、いつもかつも夢の中で囁きかけ下さると言う事はないのです。そこで私共の信心の心というものを、段々高めさせてもらい、深めさせてもらってです、何時も神様と交流しておる様なおかげを頂く為に、私共が神様と交流する為に、水と油では一緒になられませんから、神様が水の性であるなら、私共も水の性にならせて頂くような気持、その一番かよう心というものを、真心とか親切とか本気で限りなく美しくならせて頂こうと願う。そういう心なんだ。
そういう心で神様と通わなければならないと、言った様な事を申しました。そんな事をいろいろ思わせて頂いてから、御祈念をさせて頂いたわけででございましたけれどもです、それで結局結論しますと、私が一番始めに申しました様に、本当いうたら御理解というのは、ひと言でいいのだと。もうこれなのだと。けれども只今中村さん所の、そ例話をもってこれは理解、より分かり易くする為に、それだけの話をするのでございますけども、実際は私が一番始めに申しました様に。
お取次を願わしてもらい、お取次を頂かして頂いたら、どうぞ万事宜しくお願い申しますと言って神様にお願いしたら、最後お取次を頂いたら、もうその場からお取次の働きというものが始まるのだと言う事、確信する事以外にないのです。お取次を頂いたら、それは自分の思う様にならなくても、お取次頂いているんだと、神様の御都合に違いないんだ、最近試験の事で何時も申し上ますけど、試験が受かりますようにというて願ったけども、受からなかった。
しかしお取次を頂いての事だから、神様の御都合に違いないと確信するところにです、そのことは難儀な事でなければ困った事でもなくて、お礼を申し上げる以外に無いんだという事が分かる。それを確信すると言う事。それを信じさせて頂けれる信心に、お互いの信心が成長すると言う事。そこが頂けて参ります時にです、私共はです、神の声を聞いたのであり、神の姿を見る事と同じ事になるのです。お取次の働きというものは、そういうような風な、あっているのですから。
それをそのような風に間違いなく、此方等に頂き止めると言う事。お取次を頂いておる、お取次を願わしてもろうておるから、おかげの方にしかならんと確信する事。それを肉眼でもって見ると、いわば落第したと言う事になってもです、それはおかげの方に行っている、飛び石伝いにすぎないのであると言う事。おかげの方に向かっているんだと言う事。ですから思う様にならなかったというて、がっかりする事もなぁもいらん。いつも平静の心をもって喜びをもって、その事を受けさせて頂けれるという心がです。
段々強くなっていくと言う事、それが私は一年一年有難くなっていくと言う事は、そういう事だと思う。お取次を頂いて、お取次を願わしてもらい、そのお取次の働きというものがです、もう早速始まるのだと確信する事、お道の信心とは。そこに私共の心の中に安らぎの生活、いうならば次、元の違った世界に住む事が出来る。次元の違ったものの見方、ものの聞き方が、段々出来てくる様になると言う事ではなかろうか。
そこでお取次を頂くと言う事も、願うと言う事もです、有難いのですけども、それを本当に、そういう確信をもって頂かせて頂ける為に、お互いが限りなく改まらせて頂こうじゃないか、磨かせて頂こうじゃないか。いや磨かせて頂こうと、自分に心の中に、それを願わして頂き、それを行の上に現わしていく時にです、確かにお取次を頂いておるから安心という、その安心の心がいよいよ確固たるものになってくるのですよ。どうぞ皆さん、今日私が皆さんに申し上げた事がです、信心はこれですよ。
金光様のご信心は、今日の頂きどこはここですよと。ここんとこだけなんです。そこんとこだけをいうてもです、信じられんもんかい、そげん思えるもんかいといわずにです、信心は、私が今日申しました様な、信心の進め方をさせて頂いておりますとです、それが、そう確信出来るようになってくるから、有難いのです。お取次頂いておるのであるから、間違いのないお取次の働きというものがあっておるのだと。肉眼には困った事の様に見えているけど、情けない様に見えているけども。
それはおかげに向かって行く所の、飛び石伝いなのだと。もうおかげに向かっている第一歩なのだと。これを有難くさえ受けていけば、ここをこの方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰る様に、その事をですお取次頂いてきた、その出たとこ勝負。いうならば。右に出ろうが左に出ろうとも喜びで受けて行く所に苦労はさせんと約束して下さる様な働きがです、確かに頂けるんだと言う事を体験していかねばならない。そういう世界に住む事を、私は言わば信心のない人の世界、信薄き者の世界。
いうなら次元の低い世界から、次元の高められた所の、言わば一次元の世界から、二次元の世界に住み替えさせて頂けるところまで、お互いが信心を進めていかねばならない。もう本気に限りなく美しくなりましょうや。椛目の合い言葉「本気で限りなく美しくなりましょうや」それになんぞや、もう自分の心に汚い心が起きる。げさくな心が起きる。はぁこげな事じゃいかんと、こう打ち払い打ち払いしながらです。限りなく美しくならせて頂くことに精進させて頂く。
限りなく美しくならせて頂く為には、まず改まなければならない。垢を落とさなければならない。そしてそれを磨かなければならない。信心は日々の改まりが第一。信心とは本心の魂を磨くものぞや、という様な信心。本当の神の願いであるところの、そこにです焦点をおいておかげを頂いていくところに、確かに次元の違った世界に住む事が出来る。自分の心の眼が見えないばかりに、心の耳が聞こえないばかりに腹立ったり情けなかったしておる様な世界に、何時までもうろうろしているようではいけないと思うですね。
どうぞ。